パンダ組の日常

~だんご三兄妹をめぐるカオスな日常~

悲しみの乗り越え方

※かなりの長文です

 

近しい人を亡くした時、人はどうやってその悲しみを乗り越えていくのでしょうか。

今から約一年前の私は、ネットでそんなことを黙々と調べるほどに酷くもがいていました。

 

父を亡くしてちょうど一年が過ぎ、今少しだけ新しい境地が開けてきたような気がします。

 

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父が大病を患ったのは今から20年以上前、私がまだ高校生の頃でした。

その時父は40代、今の私に毛が生えた程度の年齢です。

そして病気がわかった時、家族の誰もが死を覚悟しました。

 

 

それから過酷な闘病生活が始まりました。

手術に放射線治療に化学療法、フルコースです。

四半世紀前の治療ですから体に対する侵襲も今とは比べものにならず、それだけに後遺症も強く残りました。

しかし、強運かつ頑張り屋の父は奇跡的に病気に打ち勝ったのです。

まさに家族一丸となって勝ち取った命でした。

 

 

家族一丸と書きましたが、正直なところ私は何もしていません。

何もしていないどころか、弱かった私は完全にダメになってしまいました。

結果、大学受験を控えた身でありながらひたすら現実逃避。

今でこそ父の後を追ってか追わずか医者のハシクレとして働いていますが、ここに至るまでには多浪や中退を繰り返す、恥にまみれた人生を送ってきたのです。

 

しかしそうやって徐々に軌道から外れていく息子に割ける時間が無いほどに、我が家は父にかかりきりでした。

 

 

 

なんとか一命を取り留めた父でしたが、それからは再発の心配と後遺症に苦しむ毎日でした。

それでもフルタイムで仕事を続けていた父は立派だったと思います。

そしてそれを必死の形相で支えていた母。

少しでも免疫力を上げようと躍起になっていた母は、体に良いと言われるものを手当たり次第に作りました。

 

ある時舞茸エキスが良いという噂を耳にして以降、家に大量の舞茸が段ボール箱で送られてくるようになりました。それを大鍋で煮詰めて、真っ黒に濃縮された液体成分をスープとして飲ませるのです。

かなり手間のかかる作業ですし、なによりいつも舞茸の濃い臭いが漂います。

残った大量のガラは勿体ないので、味を付けてザーサイの様にして食べました。

だから我が家の食卓にはいつもしなびた舞茸の残骸が乗っかっていました。

息の詰まりそうな舞茸臭と延々続く残りかすの処理に、一時期舞茸が大嫌いになりました。

 

それでも母は数年に渡って舞茸を煮続けました。

それだけ追いつめられていたのでしょう。

他にも雑多な野菜を煮詰めて作る野菜スープや霊芝(キノコの一種)のスープなど、当時の我が家では常に何らかのエキスが抽出されていたように記憶しています。

 

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最も父の病気のあおりを受けたのは姉かもしれません。

おそらくは父の闘病のストレスが引き金となったのでしょう、父が病気になってから数年後に慢性の疾患を発症してしまいました。

 

これが中々の曲者で、毎日続く微熱に体力が削ぎ落とされると共に食事もろくに摂れなくなったため、体重は一気に30kg台まで落ち込んでしまいました。

そして、そのような状態が数年間続きました。

 

父ひとりだけでも限界に近かった我が家にとって、姉の病気が重なったことはまさに大打撃でした。

例えるなら、超大型台風の直撃を受けた傷跡が消えぬうちに未曾有の大地震に襲われたようなものです。

 

この家は呪われているのか??・・・・・幾度となくそう思ったことがあります。

それくらい精神的につらい日々でした。

 

 

さてその頃、進路をめぐってちょうど人生の岐路に立たされていた私は、あろうことかこのタイミングで当時通っていた大学院を中退する決意をしました。

もはや正常な判断ができなくなっていたのだと思います。

 

とにかくこのままではヤバい、ここで俺が一発逆転のホームランを打たなければこの船は沈んでしまう・・・・

 

本気でそう思っていました。

なんとしてでもこの家の風向きを変えたかったのです。

ついでに自分の人生も変えてしまいたかったのです。

 

 

大学院をやめると宣言した時、冷ややかな反応を見せる家族の中で(私には以前にも大学中退の前科があったので)唯一父だけが 嬉しそうでした。

私が自分の後を追いかけてきたように感じたのでしょう。

実際追いかけていた部分もあったのだと思います。

息子というものは、知らず知らずのうちに父の背中を追うものです。

 

周囲の説得にも耳を貸さず、私は大学院を休学して浪人生に戻りました。

すでにいい歳だった私は、これによって企業への新卒採用の道を完全に断たれました。

もう後が無くなったのです。

しかしあまりにもつらいことが多すぎて麻痺していたのか、今さら浪人に戻ることくらい屁でもないと思っていました。

実際には25歳を過ぎてからの浪人生活はなかなかに孤独でキツイものでしたが。

詳しい経緯に関しては思ひでシリーズ:再受験編にまとめています。

 

 

格通知が届いた日の家族の喜びよう、特に電話で報告した時の父のうわずった声は忘れられません。

皆心の中では「万が一受かるとしても数年はかかるだろう」と覚悟していたようです。

それくらいに誰からも期待されていなかった私がまさかの一発合格を決めたことで、確かに我が家の風向きは変わったような気がします。

後遺症は残すものの父の病気は完治していましたし、姉の慢性疾患もゆっくりと改善に向かっていました。

 

 

そんな具合に、家族全員で這い上がってなんとかここまでやってきたのです。

 

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しかし今振り返ってみると、本当の意味で心が休まる時は少なかったような気がします。

 

人間なんていつ死んでもおかしくない、今回家を離れたら次帰ってきた時にはもう会えないかもしれない・・・そんな強迫的な考えに支配されていた私は、遠方の大学に通うようになってからも、とにかく頻繁に家に顔を出すことでなんとかそういった不安と対峙していました。

 

今から考えれば、男としては珍しいくらい足繁く実家に帰っていたと思います。

 

例えば遠く離れた他県で一人暮らしをしていた学生時代、最低でも年に3回は大嫌いな飛行機に乗って帰省していました。特に夏季休暇、春期休暇は長いため、一度帰れば1か月以上実家に入り浸りでした。

年末年始を実家で過ごさなかったのは、今までの人生で研修医1年目の一度きりです。

大学を卒業すると同時に親の住む地に戻り、実家から車で一時間圏内に住居を構えました。

結婚して子供ができてからも、最低月に2,3回は家に顔を出したり一緒に外食をしたり。

そして少なくとも年1回は両親と姉を含めた家族総出で旅行に出かけていました。

 

 

それもこれも、人は突然いなくなるということを痛感していたから。

来たるべき時がいつ来るかわからない以上、いつ来てもいいように常に最後と思って行動しようと。

 

格好いいことを書いているようですが、本当にそう思って二十余年(特に後半の十年)、日々を送ってきました。

 

私のこの想いを理解していたからかどうなのか、やたらと実家に顔を出したがる夫に文句も言わず付き合ってくれた嫁さんには感謝です。

 

  

 

しかし恐れていた通り、最期は突然やってきました。

 

 

一年前の年の瀬、朝の6時台に突然携帯電話が鳴りました。

着信表示で実家からだとわかった瞬間、体中からアドレナリンが噴き出るのがわかりました。

よほどの事情が無い限りこんな時間に電話をかけてくるわけがありません。

良からぬことが起こったということは明らかでした。

 

嫌な予感は的中し、唐突に母から父が死んだと告げられました。
 

 

そこから先のことは断片的にしか覚えていません。

そしてその状況を具体的に書けるほどにはまだ傷が癒えていません。

 

毎日覚悟して暮らしていたと豪語したわりには、この不意打ちをなかなか受け入れることができなかったのです。

なんのかんのとあと10年くらいは細々生きてくれるのではなかろうかと、甘いことを考えていましたから。

 

それくらいに突然のサヨラナでした。

 

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しかし後悔はほとんどありませんでした。

 

もっと一緒にいればよかったとか、もっと孫に会わせてやればよかったとか、もっと思い出を作ればよかったとか・・・・そういう思いは一切無かったのです。

少なくとも自分としては「もうこれ以上は無理でした」と言い切れるくらい、とにかく傍にいたと思います。

時間的・空間的にだけではなく、精神的な面も含めて。

 

もうすでに一生分の心配をし尽していたんだと思います。

 

今となっては、できなくなってしまった後に「やっておけばよかった・・・」と後悔せずに済んだことだけが唯一の慰めです。

 

  

後悔は無かったのですが、納得もできませんでした。

このあまりに唐突な幕切れに、何に対して怒りをぶつければいいのかがわかりません。

あれだけの病気をしたのに20年以上も生きることができたじゃないか、頭ではそう思っても気持ちがついてこないのです。

 

人付き合いが苦手で友達が少ない私にとって、家族は最小単位で最大単位なのです。

その数少ない一人を奪われたのは大打撃でした。

一体どのようにこの現実と向き合えばばいいのかわからず、いつも苛立っていました。

 

 

しかしあれから1年が過ぎ、少しだけ心境に変化が出てきました。

当初は出口の見えないトンネルの中でひたすら悲壮感と格闘していました。

だけど、最近になって悲しみの質が変わってきた気がするのです。

時間をかけてほんの少しだけ角がとれ、丸みを帯びてきた感じです。

とは言っても、いまだに狭心痛のような発作で服の上からギュッと胸を掴んでしまう瞬間は多々あります。

それでも少しずつその回数は減ってきました。

 

 

去年の今頃、どうやってこの悲しみを乗り越えればいいのかわからずに悶々としていました。

そして今、その答えが少しだけ見えてきた気がします。

まだ文章にできるほどはっきりとした答えではありません。

しかし漠然と、きっとこの悲しみは乗り越えるべき類のものではないのだろうと。

乗り越えるのではなく、長い年月をかけて胸の内で熟成させていくもの。

どのように熟成が進んでいくのかは、生前の関わり方と死後の心の持ち方次第。

そんな気がしてきたのです。

 

 

 

神社仏閣を訪れた際、賽銭を投げた後に祈る内容はいつも同じでした。

~家族全員が健康で安全に長生きできますように

 

 

しかし最近になって祈る内容が少しだけ増えました。

~家族全員が健康で安全に長生きできますように

~死ぬときに怖い思いや苦しい思いをしませんように

~できれば淋しい思いもしませんように

 

 

ようやく私は、死ぬということを本当の意味で理解しつつあるようです。